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 第4章 テコンドー組織発達の歴史的経緯 〜朝鮮解放後の武道界史とテコンドーをめぐる情勢 南北朝鮮分断

※時代背景1945.8.15〜1948.8(米ソ支配下)南北朝鮮分断

1945年8月15日、日本の全面降伏とともに第二次世界大戦は終わり、1905年の日韓保護条約、そして1910年の日韓併合から続いた日本の朝鮮支配も幕を閉じた。

その間、朝鮮では様々な独立・抗日活動が行われたが、終戦前の1943年11月、米国・ルーズベルト大統領、英国・チャーチル首相、中国・蒋介石総統はカイロで首脳会談を開き、「朝鮮人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由独立のものとする」と宣言した。
終戦より1年ほど前に呂運亨(ヨ・ウニョン)を中心に結成された建国同盟は、日本降伏直後から右派・左派も含めた建国準備委員会を組織した。
植民地時代から積極的に独立・抗日運動を展開してきた共産主義者を中心としたこの委員会は、宋鎮禹(ソンジヌ)ら一部の右派などには協力を得られなかったものの、9月6日には全国人民代表大会を開催し、朝鮮人民共和国の樹立を宣言した。
共和国の主席には李承晩(イスンマン)、副主席には呂運亨が就任し、委員には金日成(キムイルソン)も含まれていた。しかし、2日後の9月8日に上陸した米軍は、共和国政府を認めず軍政を敷いた。
11月20日には全国人民委員会代表者大会も開催されたが、米軍政との関係は悪化し、逆に反抗勢力と見なされ弾圧されるようになった。
また、米国は中国の重慶にあった大韓民国臨時政府についても否認し、直前にソ連との間で取り決められた38度線以南を統治し、一方、北部を統治したソ連は、共和国政府の中の共産主義者らを中心に、北朝鮮の社会主義化を図った。
12月27日には、米英ソがモスクワ協定を締結、中国を含めた4カ国が朝鮮を信託統治し、その後に独立させることが取り決められた。
これに対して、朝鮮国内では信託統治賛成派と反対派が激しく対立し、韓国民主党党首・宋鎮禹が統治を支持したという理由で暗殺された。
当初、共産党は信託統治に反対していたが、1月に入ると突然方向転換し賛成派に回った。そのため、支持基盤の薄かった右派は、信託反対派の支持を急速に集めて力をつけた。
2月8日、ソ連統治下の北朝鮮では北朝鮮臨時人民委員会が設置され、金日成が委員長に据えられた。
南朝鮮でも2月14日に韓国民主党を中心とする南朝鮮民主議院が創設され、李承晩が議長となった。しかし、呂運亨らは南朝鮮民主議院には参加せず、2月15日、左派を中心に朝鮮民主主義民族戦線を結成し、左派・右派合同(左右合作)による朝鮮独立を目指して民主議院と戦っていくことになる。
モスクワ協定に基づけば、米国とソ連は協力して朝鮮を信託統治すべきであったが、両者は共に自らに都合のいい勢力による朝鮮独立を望んでいた。
そのため、朝鮮を巡るその後の米ソ共同委員会では意見が常に対立した。
そういった動きを受け、李承晩は南朝鮮だけでの単独政府樹立を示唆したが、主要な政党は反対の姿勢を示した。米国は、呂運亨を中心に左右合作を模索したが、1947年3月12日に米国・トルーマン大統領が、いわば 冷戦の開始宣言といえるトルーマン・ドクトリンを発表したことで、決裂は決定的となった。
1947年5月21日から始まった第2次米ソ共同委員会で、米国はソ連に対して朝鮮南部及び北部での選挙実施を提案したが、ソ連側は朝鮮の状況を鑑みて朝鮮の分断を決定的なものにすると拒否した。
また、左右合作に向けて活動していた呂運亨が、李承晩が放ったとされる刺客により暗殺され、米国は1947年9月17日、朝鮮問題を国連に提訴した。
ソ連は、国連への提訴はモスクワ協定違反だとしたが、米国は数の論理で半ば強引に決議を進め、1948年3月末に南部のみでの代議員選挙が実施されることが決議された。同決議は事実上、南朝鮮の単独政府樹立へ向けたものであったことは明白で、朝鮮国内でも反対闘争が繰り広げられた。
二・七救国闘争に端を発した闘争は1948年4月の済州島四・三蜂起に至り、後に李承晩によって暗殺される金九(キムグ)ら右派も単独選挙に反対し、北朝鮮の政治指導者ノも呼びかけ、平壌で朝鮮政党社会団体代表連席会議(南北連席会議)を開催した。そうした混乱の中、5月10日に選挙が実施され、198名の議員が選出された。この選挙では、2月7日から5月14日までの混乱で合計334名が死亡したとされている。
その結果を受け、5月31日には大韓民国制憲国会を開設、7月10日には国号が大韓民国と決定され、20日に初代大統領として李承晩が選出された。米国政府は8月15日、大韓民国政府を正式に承認し、その3日前の12日には中国も同政府を承認した。
それでも、金九らはあくまでも南北統一による独立を目指して南北連席会議に参加した。一方、北朝鮮では9月2日、朝鮮最高人民会議が開催され、8日には朝鮮民主主義人民共和国憲法が採択された。同憲法では、朝鮮民主主義人民共和国の首都をソウルと定め、全朝鮮をその領土と規定した。
9日には、朝鮮民主主義人民共和国政府が樹立され、内閣首相に金日成が選出された。これにより、お互いの存在を認めない政府が南北に並存することになった。

1950年

6月25日、朝鮮戦争勃発。

※朝鮮戦争〜1950年6月25日 - 1953年7月27日休戦、事実上終結)は、成立したばかりの大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で朝鮮半島の主権を巡って勃発した紛争から発展した国際戦争(1950年6月27日の国連安全保障理事会の決議では、北朝鮮による韓国への侵略戦争と定義している)である。この戦争によって朝鮮全土が戦場となり荒廃し、朝鮮半島は南北二国による分断が確定されることになった。

  
李承晩(左)              彭懷と金日成

  
前線を視察するマッカーサー         戦時下の朝鮮国民

  
朝鮮人民軍ソウル入城            国連軍元山空爆

  
ソウル市街戦               市街戦直後

  
市街戦に向かう国連軍兵士            国連軍兵士

  
国連軍ソウル入場                戦時中の太田駅

  
ソウル市街                破壊された漢江大橋

  
朝鮮人民軍第3師団                ソウル開放

朝鮮戦争中当時、臨時首都であった釜山(プサン)において避難生活をしていた空手人士達が協会設立に合意。大韓空手道協会(テハンコンスドヒョップェ)創設。盧秉直(ノ・ピョンジク)、黄琦(ファン・ギ)、尹快炳(ユン・クェビョン)、孫徳成(ソン・ドクソン)、李南石(イ・ナムソク)、李鍾佑(イ・ジョンウ)、玄鍾明(ヒョン・ジョンミョン)、趙寧柱(チョ・ニョンジュ)、金仁和(キム・インファ)らが参与。初代会長:趙寧柱:チョ・ニョンジュ(在日居留民団団長)。しかし、大韓空手道協会創設後、1ヶ月もしないうちに、武徳館館長:黄琦が中央審査委員の資格がもらえない事を理由に脱退。続いてその1ヶ月後、青濤館館長:孫徳成も同じ理由によって脱退した。統合は果たせなかった。

  • この年、崔泓熙(チェ・ホンフィ:日本留学中は中央大学に在籍、船越義珍・船越義豪に師事・松涛館2段取得)氏は米士官学校を卒業。戦争勃発とほぼ同時に帰国。陸軍士官訓練学校創設・副校長になる。

1953年

朝鮮戦争中に武徳館館長ファン・ギ(黄琦)が独自にテハンタンスドヒョプェ(大韓唐手道協会)を組織し、大韓体育会加入へ向けて動いた。
この事態を深刻に受けとめたテハンコンスドヒョプェ(大韓空手道協会)は加入を防ごうと、大韓体育会に対し、陳情書を提出するなど、あらゆる防止策を取った。そして、遂にテハンタンスドヒョプェ(大韓唐手道協会)の大韓体育会加入を防いだ。この防止活動の主軸となったのは尹快炳、盧秉直らであった。また、こ時のテハンコンスドヒョプェ(大韓空手道協会)の会長には閔寛植(ミン・グァンシク)の推薦によって財務長官を経た李重宰(イ・ジュンジェ)が、副会長に閔寛植本人、そして、理事長に盧秉直、事務局長に李鍾佑(イ・ジョンウ)が選任されていた。

★同年、崔泓熙氏は、第29歩兵部隊を創設、部隊の兵士に唐手を教える。

7月、朝鮮戦争休戦協定成立。
※分断以後、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)ではこれまでの空手を始めとする武術を近代武道としてではなく軍事教練及び戦闘技術として用い改良させた。一般的に「撃術/キョクスル」として広く知られ、軍の管理下にある。

1954年

崔泓熙陸軍少将と副官の南太熙(ナム・テフィ)を含む第29歩兵部隊が李承晩大統領の前で演武を行う。12月、これまで崔泓熙陸軍少将が研究、開発してきた新しい武道を「テコンドー/足台拳道」の名称に決定。また崔泓熙陸軍少将はこの年、国軍内に吾道館(オドグァン)を創設、館長に就任。崔泓熙陸軍少将が青涛館(チョンドグァン館長:孫徳成/当時国内最大で最も威厳を持った道場だった)の名誉館長に推待され青濤館を直接指揮した。 

※崔泓熙(チェ・ホンフィ)陸軍少将は自らの雅号を「蒼軒」と称していたため、テコンドーの名称を決めるまでは「蒼軒流唐手/チャンホンユ」とされていた。

1955年

4月11日に崔泓熙陸軍少将が名称制定委員会を召集しテコンドーの名称が李承晩大統領によって公式に認定される。/国会副議長チョ・キョング、連合参謀議長李享根(イ・ヒョングン)大将、青涛館館長 孫徳成(ソン・ドクソン)ら参席。

★崔泓熙陸軍少将が忠清南道太田(テジョン)市に第三軍管区を創設し司令官となる。

1956年

★陸軍少将が全国学生テコンドー連盟を組織し軍、一般、学生の組織を整理。

1957年

★崔泓熙陸軍少将が太田(テジョン)市に最大規模のテコンドーセンターを建設。

1958年

崔泓熙陸軍少将が予備軍監の職を利用し全予備師団にテコンドーを普及する。

1959年

崔泓熙陸軍少将が21名の師範で構成された国軍テコンドー師範団を引率しベトナムと台湾を巡訪(当時のベトナム共和国駐在大使であった崔徳新氏による外交手腕に基因)。
6月15日、青濤館館長:孫徳成が崔泓熙陸軍少将の名誉館長職を取消し、同時に玄鍾明(ヒョン・ジョンミョン)師範、嚴雲奎(オム・ウンギュ)常任師範、南太熙(ナム・テフィ)師範を除名処分した。(朝鮮戦争時に日本へ密航した「非国民および青涛館分裂謀略策動計画者」となった初代館長李元國と接触し、指令書を受け取ったなどの理由からとされている:実のところは孫徳成が民間人という理由で巡訪団のメンバーに加えられなかったからとされる)/しかし、この行為は通用力を有しなかった。
同年、9月に崔泓熙陸軍少将は「テコンドー会」と青涛館を註損とする「大韓唐手道協会」らを統合し大韓テコンドー協会創立。初代会長崔泓熙陸軍少将、副会長に尹快炳、盧秉直、理事長に黄琦が選任された。(しかし、国内の情勢不安定に伴い公式認定がなされなかった)

 1959年(檀君暦4292年)9月3日、『大韓テコンドー協会』創立。 

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写真左から3番目が崔泓熙総裁である。

1960年

4.19学生蜂起により李承晩大統領が国外へ追放された。国内混乱の最中、以前大韓唐手(タンスド)協会公認化を阻止されたファン・ギが、団体名称を大韓手博道会(テハンスバクトフェ)に改称。/政界有力者を利用して大韓民国文教部(日本の文部省にあたる)体育会に社団法人大韓手博道会の登録を完了させた。間を突かれた大韓テコンドー協会はこれを不当とし、文教部に対し陳情書などを通じて強く抗議した。しかし、文教部は大韓テコンドー協会に対して「現法に保証されている結社の自由を妨げる訳には行かない」とした。また、「同じ種目で二つの団体は認められないので統合会議を開いた後、単独団体として決着してから再度書類の提出を望む」と対応した。

★崔泓熙陸軍少将は米テキサス州、ミサイル学校に通いながらテコンドーを紹介。米サンアントニオにて学友たちに唐手名称を用いて教えていた弟子のイ・ジュング(米通称名:ジョン・リー)に会い名称をテコンドーに変更させる。


崔将軍を空港で出迎えるイ・ジュング(ジョン・リー:Jhoon Rhee)

崔泓熙陸軍少将が第6軍管区司令官、陸軍情報参謀部長、全羅南道光州にある戦闘基地司令官、そしてロンサン第二訓練所長を歴任。各連隊に道場を最低1つ建設。

  • ジョン・リー:Jhoon Rhee


ブルース・リージョン・リーの組手稽古

アメリカでは一般的にジョン・リーが「テコンドーの父」とされている。
ITFの組手競技に採用されている防具(初期型)は1976年に彼が考案し、現在のライトコンタクトスタイル確立に大きく影響を与えることとなった。また、ブルース・リーやモハメッド・アリ、そして米国議員たちと親交が深く北アメリカに「マーシャルアーツ」を広めた第一人者として賞賛されている。
現在も米国ワシントンDCを中心にJhoon RheeTaekwondoの名前でテコンドーの普及活動を続けている。


モハメッド・アリにテコンドーを指導するジョン・リー

同年(1960)、崔泓熙陸軍少将が第6軍管区司令官、陸軍情報参謀部長、全羅南道光州にある戦闘基地司令官、そしてロンサン第二訓練所長を歴任。各連隊に道場を最低1つ建設。

時代背景
※ベトナム戦争(ベトナムせんそう 1960年 - 1975年)は、インドシナ戦争後に、ベトナムの独立と南北統一をめぐって戦われた戦争。宣戦布告なき戦争であるためベトナム紛争とも呼ばれる。第二次インドシナ戦争ともいう。共産主義勢力の拡大を防ぐため、北ベトナムと対峙する南ベトナムを支援するアメリカ合衆国が中心となり大規模な軍事介入を行ったが、目的を達せずに撤退した。
形式的には北ベトナムと南ベトナムの戦争であったが、実質的に共産主義勢力(ソ連、中華人民共和国)と資本主義勢力(アメリカ)が背後にあっての戦いであった。その為、「代理戦争」と呼ばれた。

1961年

5.16軍事クーデターにより朴正煕政権が誕生した。
新政権樹立後、以前の文教部登録などが無効とされるやテコンドー、唐手、空手、そして一般武道の統合論議が再び活発化。同年9月大韓テコンドー協会を大韓テスド協会に改称。
国家再建最高会議が布告令第6号を発令、社会団体の再登録を命ずることによって文教部は 1961年7月12日付で公文を送り、大韓手搏道会(テハンスバクトフェ)、大韓テコンドー会、空手道松武館、講徳院武道会、韓武館中央空手道場の代表らを召集し統合会議を幾度となく促したが名称の問題により結論が出ず、オブザーバーの権利で李鍾佑が期限付き統合を決定し文教部へ報告することとなった。
これに伴い各館の代表たちは論議を重ねることになり、1961年9月14日、ようやく統合会議を開くことになった。
当時の代表参席者は智道館代表:尹快炳(ユン・ケビョン)、青濤館代表:嚴雲奎(オム・ウンギュ)、章武館代表:李南石(イ・ナムソク)、武徳館代表:黄琦(ファン・ギ)、松武館代表:盧秉直(ノ・ピョンジク)、吾道館代表:南太熙(ナム・テフィ)、講徳院代表:パク・チョルフィ、韓武館代表:イ・キョユン、参観者は韓国体育館:李鍾佑、吾道館:コ・ジェチョン、松武館:イ・ヨンソプらであった。この日、やはり名称問題で難関にぶつかったが、結局、李南石、嚴雲奎、李鍾佑らが崔泓熙陸軍少将に妥協案(テコンドーの足台と空手の手の一文字ずつを取り入れた名称:考案者/尹快炳)を提出することによって大韓テスド(足台手道)協会に決着することとなった。
そして、ついに9月14日統合創立委員会を設け、その業務推進を7人委員会に委託した。
9月19日には理事会を組織し、役員らを構成、大韓テスド協会が公式に船出することとなった。会長は空席(崔泓熙陸軍少将は名称を承認していない理由から受け入れず), 副会長には嚴雲奎, 李鍾佑が選任された。
同年、崔泓熙陸軍少将は第6軍団長となり国軍および米第7師団にテコンドー名称を用いて指導。この年にほぼ全国軍と全警察のテコンドー義務化が成功した。

  • 5.16軍事クーデター

〜5・16軍事クーデターは、後の韓国大統領で当時少将(第2野戦軍副司令官)だった朴正煕や張都暎などが軍事革命委員会の名の下、起こした軍事クーデター。1961年5月16日に発生したため「5・16軍事クーデター」と一般的に言う。
反共親米、腐敗と旧悪の一掃、経済再建などが決起の理由とされる。しかし、この時期を選んだのには韓国学生運動と朝鮮学生委員会との板門店における南北学生会談の開催という、別の理由がある。「行こう!北へ!来たれ!南へ!板門店で会おう!」をスローガンにソウルを出発した学生デモは10万人に達し、文民の張勉内閣(第二共和国)には、学生会談を抑える力がなかった。当時の韓国の1人あたりGNPは約80ドル。北朝鮮の経済力のほうが圧倒的に強く、赤化統一の可能性があった。クーデターは、アメリカ中央情報局(CIA)がけしかけたとの説もある。 (資料はウキペディアより)

※5.16クーデター後

朴は政権を奪取し、軍事革命委員会を国家再建最高会議に改称、治安向上や経済改善などを名目に韓国民の思想・言論を弾圧した。6月10日には秘密諜報機関・韓国中央情報部(KCIA)が発足された。このような朴の政治は今後の韓国政治史の長い軍事政権の土台を築き上げる事となった。

1962年

大韓テスド協会は6月20日に大韓体育会へ加入し、10月5日に事務所もそこへ移転した。同年8月に武徳館(ムドックァン)館長ファン・ギ(黄琦)が智道館(チドグァン)館長 ユン・ケビョン(尹快炳)を伴い脱会。10月24日、テスドが第43回全国体戦(太邱/テグ)エキジビション競技として採用される。11/11 全国初の公認昇段審査が国民会議堂で行なわれる。
12/15会長は崔泓熙陸軍少将の推薦者:蔡命新、副会長に嚴雲奎(青涛館館長)、専務理事にキム・スンベ。崔泓熙陸軍少将は軍職を解かれマレーシア初代韓国大使に任命される。
韓国政府は吾道館(オドグァン)の南太熙(ナム・テフィ:解放後、青濤館の李元國に師事、1947年、陸軍通信学校で唐手道を教えていたことが契機となり軍と繋がりを持つ。
1953年済州島歩兵第29部隊にいた崔泓熙陸軍少将と出会いその後、崔将軍の片腕となる)を団長とする初のベトナム・テコンドー教官団を派遣。

※初の公認昇段審査(1962、11、11大韓テスド協会)の内容:ヒョン(型)、テリョン(対練)、論文(3段以上)の3種目だった。対練は防具を着用して1Rが3分で行なわれる試合形式で行なわれた。

また、型は初段受審者で平安5段、鉄騎初段、内歩進初段、慈院、花朗、等が行なわれた。そして、指定型は次の通りであった。

二段指定型 → 抜塞大、鉄騎二段、内歩進ニ段、騎馬ニ段、忠武、

三段指定型 → 十手、抜塞、燕飛、短拳、鷺牌、階伯、乙支

四段指定型 → 鉄騎三段、内歩進三段、騎馬三段、慈恩、鎮手、岩鶴、鎮東、長拳、三一

五段指定型 → 公相公、観空、五十四歩、一三、半月、八騎拳

(花朗、忠武、階伯、乙支、三一以外はすべて空手の型そのものであった)

1963年

2月23日、大韓テスド協会が大韓体育協会の定期総会で加盟承認を受ける。6月24日に大韓テスド協会は役員を交代、会長に蔡命新(崔泓熙氏の推薦)、副会長にヒョン・ジョンミョン、専務理事にパク・チョルフィが選任された。第44回全国体育典でテスド(テコンドー)が正式競技種目に採択。

★崔泓熙大使がマレーシア首相の要請にてテコンドーデモンストレーションを成功させる。これを機にマレーシアテコンドー協会設立が可能となった。また、国連韓国大使 イ・スヨンに要請、その後UN庁舎にてテコンドーデモンストレーション成功。

1964年

時代背景 韓国軍の参戦

 南ベトナム内に展開するアメリカ軍の装甲車大韓民国の朴正熙政権はアメリカの要請により、1964年に最初の海軍部隊を派遣したのを皮切りに、1965年10月には陸戦部隊である猛虎師団1万数千を派兵して本格的に参戦。1973年3月23日に完全撤収するまでに最大約5万人、のべ35万人以上の兵力をベトナムに投入した。韓国軍は北ベトナム兵などを約4万人(公式記録)殺傷したものの、韓国軍の犠牲者も戦死約5千、負傷約2万に上った。オーストラリアやタイ王国もアメリカの要請によりベトナム派兵したが、アメリカ以外の国としては、韓国が最大の兵力を投入した。米韓の協定により、派兵規模に応じた補助金を得られたということ、また北朝鮮や中国などの軍事的脅威を身近に感じていたため共産主義勢力の伸張に対して強い危機感を持っていたこと、軍に対して国民に理解があり、反戦運動が盛んでなかったことなどがその理由である。韓国軍は国内の最精鋭部隊を投入し、朝鮮戦争の経験を生かして精強な戦いぶりを見せた。

  
戦時中のベトナム国民(ベトミン)    南ベトナム解放民族戦線のゲリラ(ベトコン)の死体

韓国がベトナム戦争に参戦した影響が現在も残っている。韓国軍による虐殺や韓国軍兵士による、現地ベトナム人女性への買春やレイプで生まれた子供が、現在1万人以上存在しているが、韓国より謝罪や補償が全くされていないため、両国間で問題になっている(韓越混血児問題)。また、ベトナム戦争について、韓国の国定教科書では1行程度しかふれられていないため、韓国が戦争に参加した歴史を知らない若者は多い。その記述内容は「共産侵略を受けているベトナムを支援するために国軍を派兵した」というものである。
また、南ベトナム側として派兵・参戦した韓国と同じく北朝鮮も北ベトナムへの支援を行ったものの、その規模は儀礼的なレベルのものに過ぎなかった。ただし、ベトナム戦争終結後、北ベトナム軍が捕らえた韓国軍捕虜を北朝鮮に連行したという噂がある。北朝鮮は、67年から72年まで約800余名の空軍操縦士を1個連隊(70名)ずつ6ヶ月単位でベトナムに派遣、ソ連が提供したミグ17とミグ21により米空軍と戦闘を行った。当時、ベトナムで死亡した北朝鮮空軍操縦士の数は、80余名で、北朝鮮空軍内では、米軍の飛行機100余機を撃墜する戦果を挙げたとされている(戦果が事実と一致するかどうかは不明)。特に69年5月28日には北朝鮮空軍が待ち伏せ作戦を行い、北朝鮮側によるとミグ17、8機により米空軍のF-105、12機を撃墜する大成果をあげたとされ、これを記念して北朝鮮の谷山飛行場駐屯部隊が『528連隊』と命名されたと言われている。
アメリカ政府は、ベトナム戦争に参戦した韓国軍兵士に対し、その見返りとして、希望に応じて永住権を与えた。その結果、韓国国内の政治的な混乱もあり、若年層の韓国人のアメリカ移住(特にカリフォルニア州への移住)が急増したと言われている。(資料ウキペディアより)
4月3日、大韓テスド協会役員/会長:パク・チョンテ、副会長:ペク・ムン、専務理事:嚴雲奎。
同年、崔泓熙大使が自らにより、完成させたテコンドーの型をベトナムのペク・チュンギ団長に教授し唐手との違いを明白化させた。また、シンガポールテコンドー協会を設立。
崔泓熙大使は末年に帰国後、大韓テスド協会会長の職を引受けテスド(テコンドー)界の浄化作業開始。同年9月に開催された第45回大会からテスド(テコンドー)が全国体育典に正式競技種目として参加。

1965年

       

大韓テスド協会1月15日/会長:崔泓熙、副会長:李鐘佑、ハ・ガプチョン、専務理事:嚴雲奎(青涛館館長)。

★崔泓熙氏が英文テコンドー教本発刊。更に崔泓熙大使は帰国後、3月18日、「統合宣言」式開催「大韓テコンドー協会」を主張。
武徳館館長、黄琦(ファン・ギ)は「統合宣言」を無効と主張(武徳館はこれを機に内紛騒動が起きキム・ヨンテクとホン・ジョンスらが主軸となり黄琦を除名した後、統合に協調)。
黄琦(ファン・ギ)は以降、独自に「大韓手搏道会(テハンスバクトフェ)」を活動させる。8月5日になって大韓テスド協会は再度、大韓テコンドー協会の名称に改称される(会長:崔泓熙)。
また、予備役二つ星将軍であった崔泓熙将軍は韓国政府から承認を受けた国家テコンドー親善使節団を引率し、西ドイツ、イタリア、エジプト、マレーシア、シンガポール等を巡回しデモンストレーションを行った。その結果各国に協会が設立されることとなった。


国家テコンドー親善使節団


国家テコンドー親善使節団

1966年

1月、崔泓熙将軍は大韓テコンドー協会会長を理事らによる不信任によって退陣。大韓テコンドー協会第5代会長に松武館館長 盧秉直(ノ・ピョンジク)就任、副会長:嚴雲奎(青涛館館長)、ペ・ヨンギ、キム・ヨンテク、専務理事:イ・ナムソク。大韓テコンドー協会が10月28日、第1回大統領杯争奪団体対抗戦開催。

★同年、崔泓熙陸軍少将は国際テコンドー連盟(International Taekwon-Do Federation : ITF)を創設。9カ国の承認/崔泓熙陸軍少将が総裁に就任。名誉会長に与党共和党の金鐘泌議員が選出された。(ソウルの朝鮮ホテルにて式典開催)

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1966年、ITF創設記念式典 

1967年

1月、朴大統領により大韓テコンドー協会第6代会長に国会議員金鎔采が就任された。副会長に嚴雲奎(青濤館館長)、イ・カンイク、専務理事:李南石。金鎔采が就任され国内のテコンドー組織は事実上、二分化された。 10月27日ITFは文教部社会団体登録(第27号)を完了。11月30日、大韓テコンドー協会が指定型を審議し公布。

★崔泓熙ITF総裁がベトナム政府より一等功労勲章を授与。そして、韓国ベトナムテコンドー財団を設立。崔泓熙ITF総裁は8月にシカゴの全米テコンドー大会に招待され、11月26日までにアメリカテコンドー協会を設立し、本部をワシントンDCにおくことに合意。日本では箱根にて大山倍達氏と会談(日本へのテコンドー普及について)。また、崔泓熙ITF総裁は台湾から蒋介石総統より要請を受け軍人テコンドー師範団を台湾軍部に派遣。

※大山倍達氏と会談

1966年、崔泓熙将軍は大山倍達氏が日本人に帰化しようとする話を友人から聞き、アメリカから戻る途中、東京へ立ち寄った。
崔将軍は当時、崔永宜(チェ・ヨンウィ:大山倍達の本名)氏に対し、「あなたは韓国で生まれたが人生のほとんどを日本で過ごしてきました。また、日本人として、特に空手の第一人者として知られているので、機会を見て韓国人に戻り、そして、すべての組織をテコンドーに転換させるべきであり、そうすれば、全朝鮮民族はあなたを尊敬するだろうし、世界中の人々はあっと驚くはずだ。そうなれば、あなたは愛国者だけでなく、わが国の歴史に永遠と名を残す偉人になれることだろうから私としては羨ましくも思い、また、そうなる日が来るのを願っています。」また、崔将軍は彼の韓国に住む実弟の生活についても話した。崔将軍の言葉に動揺した大山氏は、崔将軍と義兄弟の関係を結び、弟になることを自任した。
崔将軍の呼びかけに答え、大山氏は統合のための試作道着を手に抱え、28年ぶりに故郷の地、韓国を訪れた。

大山氏は崔将軍に連れられ、ソウルと非武装地帯を訪れた後、崔将軍の企画したテコンドー演武会を観覧した。
それから二人は大山氏の故郷を訪問し、大山氏は弟や親戚の人と再会した。崔将軍はまたKBSテレビの、大山氏のインタビューも企画した。
その当時の放送で大山氏はテコンドー家として紹介されたため、彼がテコンドーを学んだものと理解している人が韓国には今も多くいる。
両連盟(国際テコンドー連盟と国際空手道連盟)の統合を目前にした時点で、彼の韓国における日程が問題となった。
当時、大韓テコンドー協会とITFとの間で海外師範の進出問題や段証問題、それにITF総裁が大韓テコンドー協会の名誉会長になるという協会側の規約撤廃問題など熾烈な争いが繰り広げられていた。これは政府によるテコンドー掌握の動きと、それに抗う崔将軍との対立問題の一角を現すものであった。
大山氏の訪韓日程は、大韓テコンドー協会および政府関係者とのミーティングを括りに終った。
大韓テコンドー協会と韓国政府が大山氏に崔将軍に対する恥辱的発言を繰り返したことは容易に推測ができる。
大山氏は東京へ戻るとき、金浦空港で崔将軍にこう言い残した。「崔将軍、許してください。私のような純真な人間はこのように複雑な環境の中では到底、耐え抜ける自身がありません。」大山氏はこの日を後に決して韓国人として戻ることはなかった。また、崔将軍の亡命後におけるKCIAの圧力から二人は公に接触ができなくなった。
朴正熙大統領と崔泓熙将軍の確執はこのように国際テコンドー連盟と国際空手道連盟(極真空手)の統合を阻み、後にテコンドー組織の分裂を生むことになった。
この二大組織の統合が達成されていたなら今日の勢力図は大きく変わっていたかも知れない。

参考資料:テコンドー・タイムズ113号記事
蒼軒研究会 資料抜粋

1968年

1月、大韓テコンドー協会会長にキム・ヨンチェ(金鎔采)、副会長に嚴雲奎(オム・ウンギュ)、ソウルで大韓手搏道会が第一回世界大会開催。また、大韓テコンドー協会は規定型(品勢/プムセ)のパルゲ(八卦)1章〜8章、高麗、金剛など17の型を制定。8月28日、大韓テコンドー協会は加盟団体からITFを正式に除名し傘下に「国際委員会」を新設。一方、ITFは11月5日、外務部民間親善外交団体登録を終了(第60号)。崔泓熙ITF総裁はパリで開催された国際軍人体育会のシンポジウムに韓国代表で参加/テコンドーを軍人の体育種目に採択させる為の学術論文を発表し、32カ国の代表の前でデモンストレーションを成功させる/(パリのテレビ放送を通じて初めてテコンドーがフランスに紹介された)。そしてイギリステコンドー協会設立後スペイン、オランダ、カナダ、インドなどを普及訪問、帰国後、韓国政府より体育研究賞受賞。

1969年

1月12日、大韓テコンドー協会会長に金鎔采(国会議員)、副会長に嚴雲奎、李南石、専務理事にホン・ジョンス。香港にて第1回アジアテコンドー選手権大会開催。

1970年

崔泓熙ITF総裁が南太熙(アジアテコンドー連盟会長)と共に20カ国普及訪問。

1971年

大韓テコンドー協会/1月17日、会長:金雲龍(元大統領警護室補佐官)、副会長:嚴雲奎、李南石、チャン・ジェシク、専務理事にホン・ジョンス。3月15日、季刊テコンドー誌創刊号を発刊。3月20日、朴正煕大統領によりテコンドーが国技の揮毫を受ける。同年3月、マレーシアにてITFは第2回アジアテコンドー選手権大会を開催(マレーシア国王夫妻参席)。韓国政府はイラン軍部からの要請により崔泓熙ITF総裁に教官派遣を要請、崔泓熙ITF総裁はテコンドー教官団2名を派遣。
4月6日、第7代大統領選挙で朴正煕当選。5月7日大韓テコンドー協会が礼儀規範を制定公布。

1972年

大韓テコンドー協会/1月16日、会長:金雲龍、副会長:パク・ポフィ、専務理事:嚴雲奎。1月19日、技術審議会発足。1月25日、審判講習会開催。4月4日、第1回指導者教育開催。11月30日、中央道場を竣工。品勢(プムセ:型)である太極(テグク)1章〜8章を制定。12月1日、テコンドー教本・品勢(プムセ:型)編発刊。 
ITF/崔泓熙総裁は、テコンドー百科事典(英文版)作成のための資料収集作業と国際師範教育のために29ヶ国を巡回訪問(ヨーロッパ、北米、中米、中東、アジア/中でもボリビア、ドミニカ、ハイチ、グァテマラではその国ごとに大統領に直接テコンドーを紹介/(中米テコンドー連盟発足の基盤が整う)。
崔泓熙氏が韓国大統領再選反対(三選は憲法違反と主張、)を理由にカナダに亡命。
ITF会員国による満場一致により本部をカナダ、トロントに移転 12.27 朴正煕第8代大統領就任。維新憲法公布

1973年

大韓テコンドー協会は1月10日、従来の軍内少道場を整備/43個所→9箇所。
2月14日、文教部令第301号により国民学校体育課過程にテコンドー種目採択。テコンドーの組織防衛につとめた韓国政府は2月6日中央道場を国技院と命名。

5月25日に第1回世界テコンドー選手権大会開催(ソウル)。

5月28日に世界テコンドー連盟(World Taekwondo Federation : WTF/総裁:金雲龍)が創設された。

8月31日、文教部令第325号により中学校体育教課過程にテコンドー種目採択。

12月5日、全国中高等学校テコンドー連盟創設。

12月9日、大韓テコンドー名義の段位認定証を国技院長名義に改称発給。

12月28日、韓国大学テコンドー連盟創設。

一方、ITF/崔泓熙総裁は同年、11月と12月に第3次ITFデモンストレーションチーム国際テコンドー使節団(チェ・チャングン、イ・キハ、パク・チョンス、パク・ソンジェ、コン・ヨンイル)を引率しヨーロッパ、中近東、アフリカ、アジアを巡回訪問(史上最大のデモンストレ−ションを行う/13カ国訪問中5ヶ国で予想外の支部と道場が設立し、エジプトでは10万の観衆を集めた)。