テコンドー キムズジム

 
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 第5章 創始者の証言
 〜1955〜1965:〔ベトナム演武会、軍事クーデター、マレーシア赴任、大韓テコンドー協会〕

〜1955〜1965:〔ベトナム演武会、軍事クーデター、マレーシア赴任、大韓テコンドー協会〕

キム博士:

1959年、あなたはテコンドー師範団を引率してベトナムと台湾を親善訪問しています。この訪問はどのように計画されたのですか?そしてこの演武会にはどのような意味があったのでしょか?


ゴ・ディン・ディエム大統領と崔将軍

崔将軍:

1957年の真夏の頃、李大統領はベトナムのゴ・ディン・ディエム大統領を韓国に招聘しました。公式訪問日程の中にテコンドーの演武会が入っていました。演武を見ている最中、大統領が「なぜ韓国軍があんなに強くてよく訓練されているのかやっとわかった」と言いました。
私の友人の崔徳新中将が彼のこの言葉を耳にしたのです。後に崔中将はベトナム大使に任命されました。彼はディエム大統領に韓国のテコンドーチームを招聘してベトナムで演武会をしませんかと申し入れました。ディエム大統領はチームを招聘し、また台湾からも訪問の招きを受けました。21名の師範が演武団に選ばれ、陸軍本部体育館で2週間の特別訓練を受けました。
 ベトナムでの演武会は大成功でした。我々は2週間に渡って演武を行うように招待されていたのですが、その間30万人を越す人々が我々の演武会を見物し、楽しみました。我々の訪問の成功により、ディエム大統領は、もう1週間滞在を延長するようにと申し入れてきました。
そして陸軍士官学校校長であり、後にベトナム大統領になったティウ将軍が「人間の体がこのような力を生み出すことは信じがたい。この武道こそベトナムで我々が体得すべきものだ」と感想を述べられました。

崔徳新中将  [1914-1989]

韓国の軍人。天道教の指導者。独立運動に参加する父と共に 幼い頃中国へ亡命する。
朝鮮解放後は左右合作運動に力を尽くした。1947年韓国軍に入隊し、主要ポストを歴任。退役後は南ベトナム大使、西ドイツ特命全権大使を務める。
1976年2月アメリカへ亡命し、1982年、さら北朝鮮へ亡命する。崔泓熙将軍が兄のように慕う人物で回想録にはたびたび登場する重要人物である。

この訪問には2つの意味がありました。1つは、韓国の5000年の歴史の中で、韓国の文化、精神、技術が初めて外国に紹介されたことです。
もう1つは、1962年にベトナム政府から公式に、韓国から軍や一般市民を指導するテコンドーの師範団をベトナムに派遣して欲しいという依頼があったことです。
韓国に帰る前、我々は台湾の台北に立ち寄りました。台北では、Yu将軍が我々を出迎えてくれました。
彼の歓迎演説の中で彼は、「中国と韓国は何千年にも渡って兄弟同然でした。テコンドーは箕子朝鮮の時代に、中国から韓国にもたらされたのでしょう」と言いました()私は、憮然とした感情を隠しながら、答礼の中で聴衆に向かってこう言いました。「中国と韓国は確かに有史以来、兄弟の間柄でしたがテコンドーは1955年に私が創り出した新しい武道です。紀元前にテコンドーは存在していませんでした」。

※【箕子朝鮮説】:(きしちょうせん)

紀元前3世紀ごろ、朝鮮半島の北西部を支配した中国人の王朝とされる説。伝説上の始祖、箕子は殷王室の一族と伝えられる。首都は王険(平壌)。紀元前195年頃衛氏(えいし)朝鮮により滅ぼされたといわれている

我々は台北と台南で演武会を行いました。台北での演武会には、多くの台湾政府の高官が見に来ました。その中に、蒋介石総統の息子で、台湾で2番目に力のあるChiang, kyung Kuk氏もいました。我々が演武会の予定表を作成している時、台湾側はカンフーの「Byuk Jang Sool」(※)の演武の時間を加えて欲しいといいました。我々は喜んで受け入れました。
なぜなら我々は、自分たちの能力に大変な自信があり、カンフーの人気を打ち負かすことができると信じていたからです。
演武会の間、我々の破壊力や蹴りや武器に対する防御に対し、何度も拍手喝采を受けました。在台湾の韓国大使Kim, Hong Il将軍が私にこう言いました。
「1年前、私は、韓国のバレーボールチームが台湾に1点差で破れた悲しみで泣き叫んだ。しかし今私は、テコンドーの技術がカンフーよりはるかに上回っている喜びで泣き叫びたい気分だ!」と。

キム博士:

あなたが最初に大韓テコンドー協会を設立した時、どのような難題に直面しましたか?

崔将軍:

1959年まで、私はソウルの陸軍本部で働いていました。そしてより多くの時間をテコンドーに捧げていました。私は陸軍の中に武道局を作り、そこの初代局長に任命されました。ソウルにおける私の目標の1つは、主要なテコンドーの道場を統一し、大韓テコンドー協会を作ることでした。当初私は大韓武道協会を設立しようと考えていました。
競技性の強い大韓体育会とは対照的なアジアの倫理道徳を重んじる大韓武道協会にしたかったからです。しかし柔道と剣道の代表者たちは、すでに大韓体育会に入っていました。ですから私には選択の余地がなかったので、大韓体育会に入ることにしました。体育会に入るために、我々は、打撃系の武道の、統一名称を持たなければならなくなりました。
テコンドーの名称は軍隊の中や、吾道館、青涛館の中では広く使われていましたが、一般の道場の多くではまだ唐手や空手や拳法という名称をバラバラに使っていました。

1959年の晩秋、私は4大道場の指導者を自宅に呼びました。松武館館長の廬秉直(ノ・ピョンジク)、智道館の尹快炳(ユン・クェビョン)、章武館の李南石(イ・ナンソク)、武徳館館長の黄琦(ファン・ギ)、そして私は吾道館と青涛館の代表でした。私は彼らに、大韓体育会の一員となるために、統一した名称の元で組織を一本化する必要があると話しました。そして私は、テコンドーの名称は軍隊の中ですでによく知られており、テコンドーの名前でベトナムと台湾で演武会を開催したことを話しました。
廬秉直と李南石は唐手の名称を使い続けることに固執し、黄琦も唐手を使いたいと思っていました。私は言いました。
「君たちが日本の空手の名称を使いたがることが理解できない。今日、この会合の一番の目的は、日本のカラテを韓国語読みした空手(コンス)や唐手(タンス)などの言葉を使うことをやめることだ」さらに私は声を上げ、「我々は現在、独自の哲学と技術を備えた韓国の武道を持っている、だからテコンドーの名のもとに1つにまとまろう!」ついに代表者たちは納得し、大韓テコンドー協会が創立されました。
私は協会の初代の会長に選出され、尹快炳氏と廬秉直氏が副会長に、黄琦が理事長に指名されました。6つの主要な道場の指導者たちがテコンドーの名称を使うことに同意したのは初めてのことでした。
我々が大韓体育会への加入手続きをしている間の1960年4月19日、学生蜂起により李大統領の政権は倒され、我々は大韓テコンドー協会を公式に認められる機会を失いました。我々の大韓体育会への加入が受け入れられるまで、さらに2年の時間がかかりました。

キム博士:

1961年の5月16日、あなたが参加した軍事クーデターによって政権は掌握され、その後朴正煕将軍が大統領に任命されました。後にあなたが朴大統領から距離を置くようになった要因はどのようなものだったのですか?

崔将軍:

最初に、私と彼の関係について説明させてください。私は韓国軍を創設した110人のうちの1人でした。朴将軍は私の後輩であり、私に話しかけるときはいつも敬語、「サー(Sir)」を使っていました。私がクーデターに参加した理由は、私の部下の一人が陸軍参謀長の張都暎(チャン・ドヨン)将軍がこの動きを指揮していると伝えたからです。
後に私は、多くの人間をクーデターに引き入れるために、朴将軍が張将軍の名前を利用したことを悟りました。クーデターが成功した後、朴将軍は張将軍を、反改革派として告発し、アメリカへ追放しました。
当初朴将軍は、クーデターが完了したら自分は軍へ戻ると韓国国民に約束していました。しかし実は、朴将軍も彼の部下も、大統領の地位を乗っ取ることに専心していました。
私は朴将軍に、国民との約束を守って一刻も早く軍へ戻るようにと忠告しました。そうすれば、国民は将来に渡って君を尊敬するだろう、と。しかし彼は私の言葉を受け入れず、私を退役させてマレーシアの大使に任命しました。

キム博士:

1962年に、なぜ大韓テコンドー協会は大韓テスド協会と名称を変更したのですか?

崔将軍:

私がマレーシア大使に指名された1962年、私は再び大韓テコンドー協会を大韓体育会に加入させようと試みました。
この頃、若い世代の師範たちがそれぞれの道場で指導的立場に就いていました。私は、智道館館長の尹快炳氏と、智道館の責任者である李鐘佑師範、章武館館長の李南石氏を家に呼びました。
会談の間に議論が、我々が使うべき名称の事に推移していきました。私はテコンドーが名称としてすでに選ばれており、もし新しい名前について議論したいのなら勝手にしなさい、と言いました。それから私は会合の席を離れました。
数日後、テコンドーはテスドと名称が変更され、私が大韓テスド協会の会長に選ばれたという新聞報道がなされました。私は名称の変更を承認していなかったので、その地位を受けることを拒否しました。どっちにしろ私はマレーシアに行かなければならず、韓国には何年間かは戻って来られない立場でした。私は蔡命新将軍をその地位に推薦しました。
彼は私から、テコンドーの黒帯5段を受けていました。将来のテコンドーのために、私は青涛館館長の嚴雲奎と吾道館館長の南太熙(ナム・テフィ)、そして学生テコンドー連盟会長のHyun, Jong Kyungに、大韓テコンドー協会を作るように命じました。そして私はマレーシアへ出発しました。

キム博士:

在マレーシア韓国大使としてあなたはどんなことをしましたか?

崔将軍:

私がマレーシアに着いたとき、人々は韓国についてあまり知りませんでした。私は、私の書道とテコンドーを通して人々に韓国を知ってもらおうと決意しました。
私は、私の書道の展覧会を開き、テコンドーの写真を飾りました。展覧会開催を取材した記者たちはテコンドーに大変興味を持ち、いくつかのテコンドーの技を見せて欲しいと言ってきました。
私はTシャツ姿になりテコンドーの技を彼らに披露しました。その翌日、私の演武についての記事や写真が多くの新聞に載りました。このことは、ソウルでは好意的に受け止められませんでした。Tシャツ姿で演武をしたことは、大使としてみっともないと政府の人間たちから思われたのです。
しかしマレーシアの Dung Ku Rama総理大臣は私のテコンドーの展覧会を賞賛して下さり、1963年のマレー独立記念日の記念式にテコンドーの演武会を企画して欲しいと依頼してきました。そのテコンドーの演武会はテレビで放映され、マレーシアばかりでなく近隣の国の視聴者にまでが放送を通してテコンドーを見ました。
すぐにそれらの国々から、テコンドーの指導者を派遣し、市民に武道を教えて欲しいという要求がきました。テコンドーは現在、東南アジア全域に広まり、それぞれの国にテコンドー協会が設立されています。
1964年の2月、私はサイゴンへ行きました。ベトナムのテコンドー指導者の長であるペク・チュンギ少佐に会うためでした。少佐は優れた士官であり、良きテコンドーの指導者でした。彼は、私が創った型(トゥル)を紹介するためのセミナーに、ベトナム中のテコンドーの指導者をすべて集めました。急に決まったセミナーだったので、私たちが練習できる場所はホテルの屋上しかありませんでした。
そこは大変暑くて湿気が非常に多い場所でした。在ベトナム韓国大使のShin, Sang Chui将軍がセミナーに来て、そのような状態の中での私の健康を大変心配して下さいました。
そのセミナーで、すべての指導者は新しいトゥルを学び、ベトナムでそれらを教え始めました。私は後に新しいトゥルの教本を、韓国の吾道館の館長だったWoo, Jong Lim中佐に送り、吾道館と青涛館と韓国軍でそのトゥルを教えるように命じました。
1964年の夏までに、私は24のうち20のトゥルを完成し、発刊予定であった英語のテコンドー教本のために技術や型の基本をしっかりと固めました。東南アジアや韓国で新しいトゥルが普及し始めたのはこの頃でした。

キム博士:

1965年にあなたが韓国へ戻ってから、あなたは大韓テスド協会の会長になります。あなたは帰国するとすぐに、協会の名称を大韓テコンドー協会に変えました。この頃の韓国でのテコンドーの様子を聞かせて下さい。

崔将軍:

私が韓国へ帰国した時、大韓テスド協会は大韓体育会に加入していました。テスド競技のルールは、日本の空手とほとんど変わらないものでした。
私は変革が必要であると悟り、それと同時に、韓国の古い諺、「虎穴に入らずんば虎児を得ず」を思い出しました。だから私は、テスド協会の会長に就任したのです。
それからすぐに私は全体会議を招集し、テスドの名称をテコンドーに変えることを提案しました。名称変更の投票は、一票差で可決し、ある代表者は名前が変わったことを嘆いて強く抗議したことを覚えています。
私が名称を変更することができたのは、私が朴大統領と政治的見解が一致していなかったにもかかわらず、私が予備役二つ星将校として、また大使として、まだ名声と力を持っていたことが理由だと思っています。