テコンドー キムズジム

 
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 第5章 創始者の証言
 〜1945年以前;日本への留学・松濤館の空手;日本からの解放

〜1945年以前;日本への留学・松濤館の空手;日本からの解放

 キム博士:

崔将軍、私のインタビューをお受けいただいてありがとうございます。あなたについて私が耳にした中で、大変興味深いことがあるのですが、あなたには二つの名前と二つの誕生日があるそうですね。これは本当ですか?

崔将軍:

はい、二つとも本当のことです。私は1918年の11月9日、朝鮮に生まれました。この時代朝鮮の暦は太陰暦であり、1か月は27日か28日でした。1960年代に我が国は西洋の太陽歴を採用し、1か月は30日か31日になりました。
西洋の暦によれば、私の誕生日は12月22日ということになります。2つの誕生日がありますが、私は1918年の11月9日を誕生日として選びました。
 名前ですが、私の一つ目の名前は崔泓熙、1918年に私が生まれた時に父がつけてくれた名前です。私のもう一つの名前はテコンドー、1955年に神から与えられた名前です。

キム博士:

武道の修練はどのように始まったのですか?

崔将軍:

私の修練は、日本が朝鮮を占領していた時に起きた、ある有名な事件がきっかけとなりました。
1930年、日本人学生のグループが朝鮮人の女学生たちを、光州行きの電車の中で、あざけり、嫌がらせをしたのです。電車が光州に着くやいなや、憤慨し激怒した朝鮮人学生たちが日本人学生を取り囲み、徹底的に殴り続けました。
その後、日本の警官がやってきて、朝鮮人学生を情け容赦なく鎮圧しました。
この事件の話はあっという間に国中に広まりました。日本人学生と警察の非道な振る舞いに抗議するため、国中の学生がストライキを計画し、学校を放棄しました。
当時私が在籍していた学校で、私は抗議活動のリーダーの一人であり、そこでストライキの計画と指揮を行いました。このために私は日本の学校の制度から追い出されました。
※いわゆる「光州学生事件」である。

私の父は大変な反日家だったのですが、私の将来についてとても心配し、私に中国文字と書道を学ぶことを勧めました。
父は、これらの技術により私がいつの日か墓碑を刻む仕事ができるようになると考えていたようです。そこで私は高名な書道家であったハン・イルトン先生の元で勉強することになりました。私は彼から、私の最初の武道であるテッキョンをも習ったのです。

キム博士:

あなたが日本へ行く動機は何だったのですか?また、どうして空手の稽古を始めたのですか?

崔将軍:

私は書道と中国文字を7年間勉強しました。父は私の技術のレベルと上達度に満足した様子でした。ちょうどその頃、私はもっと西洋文化を勉強したいと思うようになりました。
何人かの友人が、西洋について日本で学んでいました。休暇の間、友人たちは私に彼らの勉強について教えてくれ、日本で一緒に学ぶことを熱心に勧めてくれました。
それで私は日本に行くことを決意したのです。
日本に出発する数日前、私は賭け事で持っていたすべての金を失いました。その金は、私が日本へ行き、生活するために使うはずの金でした。私は河(ハー)さんに、いくらかの金を返してくれるように請いました。
彼はそれを拒絶し、賭け事をしたのは金を手に入れるためであって、金をやってしまうためではないと言いました。立ち去ろうと彼が立ち上がった時、私は側にあったインクの瓶を掴み、彼にそれを投げつけました。瓶は彼の額に当たり、彼は意識を失いました。
インクと血が彼の顔に流れ落ちている間に、私は彼のポケットから金を取り、走って家に帰りました。数日後、私は日本の京都に着きました。
私は、自分の身を守る方法を何か学ばないと、到底故郷には帰れないということを悟っていました。当初私はボクシングを習おうと考えていましたが、友人のキム・ヒョンスが、一緒に同志社大学の空手の稽古を見学するようにと話してくれました。
それから何日かたって、私は空手の稽古を始めるようになりました。

キム博士:

後にあなたは京都から東京へと引っ越しますが、なぜ引っ越したのですか?また東京での生活は如何でしたか? 

崔将軍:

私の最初の計画は、京都の高等学校に入ることでした。1年半の間、私は休まずに英語と数学を勉強し、空手の稽古をしました。しかし私は、高等学校の4年生に編入する試験に落ちてしまいました。そこで私は東京に引っ越すことにしました。
なぜなら、東京なら、高校に編入するためのより良い機会に恵まれると考えたからです。
 同郷の仲の良い友人であるLee, Jong Ryunが東京に住んでおり、私の移住を助けてくれました。私は再び英語と数学と空手を学びました。ついに私は入学試験に合格し、 Dong A (東亜?)商業高校の4年生に編入しました。
そして最終的に、中央大学の法学部に入学することができたのです。大学で、私は松濤館の創始者である船越義珍先生の指導のもとに空手を鍛錬しました。
松濤館での船越先生の稽古にも定期的に通い、東京から鎌倉までの「夜間特別歩行訓練」にも参加しました。
私は空手の二段を取得した後、友人の尹炳仁(ユン・ピョンイン)と共に、東京のYMCAビルの屋上で空手を教え始めました。その後、1945年に祖国が解放されてから、尹師範は朝鮮へ帰り、ソウルでYMCAの拳法部を創りました。


尹炳仁(ユン・ピョンイン)氏

キム博士:

どういう経緯で日本陸軍に入ったのですか?そしてなぜ反逆罪で拘束され、投獄されたのですか?

崔将軍:

1942年の終わり頃には、私は、他の多くの人たちもそうでしたが、日本は戦争に負けると信じていました。
ですから日本の陸軍に入るのは大変愚かなことでした。しかしこの時期、日本にいた朝鮮人学生のほとんどは、学校へ行くことを阻まれ、軍隊に入ることを強要されていました。我々は徴兵から逃れるため、下宿を次々と移動して隠れました。
しかしついに警察は私を掴まえ、1943年の10月20日、私を日本陸軍に無理やり入隊させました。
私はソウルに送られ、他の徴兵された朝鮮人学生と共にソウル大学(Seoul National University)で基礎訓練を受けました。
私たちはそれから平壌師団の第42部隊に送られました。部隊の中は反抗精神で満ちあふれていました。平壌に着くやいなや、私は、朝鮮と満州の国境にある白頭山への集団脱走を計画した30名の朝鮮人学徒兵グループの一員となりました。
私たちは白頭山で朝鮮人民革命軍に参加し、日本の占領に反抗して戦うつもりでした。しかし私たちの計画は失敗に終わりました。
私たちはみな逮捕され、反逆罪で裁判にかけられました。初めに私は懲役七年の判決を受けました。しかし後に判決が変わり、私は1945年の8月18日に死刑に処されることになりました。
私の死刑執行のちょうど三日前、我が祖国は日本の植民地支配から解放されました。私は平壌刑務所を出所しました。

※いわゆる平壌学兵事件のことである。