テコンドー キムズジム

 
メインメニュー
ツール
リンク
AdSense
六本木 不動産 .
ログイン
ユーザ名:

パスワード:


パスワード紛失

新規登録
 第4章 テコンドー組織発達の歴史的経緯 〜韓国と日本の近代史

第4章 テコンドー組織発達の歴史的経緯 〜韓国と日本の近代史〜

 1.はじめに/韓国と日本の近代史

韓国におけるテコンドー組織の発生、発達には、旧韓国唐手(空手)組織が深く関わっていること、また創始者がテコンドーを開発する以前に日本で唐手(空手)を学び、この武道をテコンドー開発の参考にしていることなどから、テコンドーの歴史を正しく理解する上で唐手(空手)との関係史を理解する必要がある。

そして近代朝鮮と日本の歴史が密接に結びついている事情を鑑み、テコンドー発生までの時代背景を知るうえで、これに関係する近代日韓関係の歴史を理解する必要がある。

そこで、テコンドーの歴史認識を一層深められるよう両国に関係する主な歴史的事柄、代表的人物、名称、空手略史などの解説を交えながらテコンドーの発生、発達の過程を年表と伴に解説する。

〔韓国併合までの道程〕

1868年明治新政府が樹立されてから、日本は富国強兵をスローガンに近代化を果断に進めていた。列強と同じように領土拡大の野望を抱いていた日本は、その足がかりとして朝鮮半島の支配を目指した。

日本は軍事力を背景に、鎖国状態にあった朝鮮に開国を要求し、朝鮮はこれを受け入れた。日本は自国に有利な条約を朝鮮と結び、やがて朝鮮の宗主国を主張する清と対立を深めていった。一方朝鮮王朝は、そのような清国と日本との争いに翻弄され、開化に反対する保守的なグループ(事大党)と開化に賛成する進歩的なグループ(独立党)の党争が絶えず続く不安定な状態だった。

日清、日露戦争を経て、日本は朝鮮半島の内政に露骨に干渉し、侵略していった。

1910年に日本が韓国を併合するまでに、日本が韓国に強要し結んだ主な条約、そして歴史的事件は以下の通りである。

(注;1897年、李氏朝鮮はそれまで「王」であった君主を「皇帝」と称することにし、併せて国号を『大韓帝国』とあらためた。したがって、1897年以降の国名表記は「韓国」となる)

 日本の帝国主義の始まりと韓国併合

徳川幕府末期になって、吉田松陰(獄是帳)や、橋本佐内らの思想家は、欧米列強のアジア進出の脅威を前に、国防の強化とアジア侵略論を展開していく。

1867年 明治維新:彼らの主張を受け継いだ志士達によって創られた明治政府は、欧米列強によって幕末以来押し付けられてきた不平等条約を近隣諸国に押し付け、欧米列強と同じように植民地を獲得することによって、対外的、国内的矛盾をくぐり抜けようとする。

*征韓論争…*福沢諭吉「脱亜入欧論」

1875年 江華島事件(雲揚号事件)

−日本海軍の雲揚号が飲料水補給の口実で江華島に近づき、砲台を砲撃して陸戦隊を上陸させた事件。朝鮮に開国をせまる日本政府の計画的挑発であった。

1876年

江華条約(「日朝修好条規」)締結−日本政府が雲揚号事件を口実に六隻の艦船で圧力を加え、朝鮮に認めさせた。日本が欧米列強に押し付けられたのと同じ不平等条約であった。釜山、元山、仁川を開港。治外法権や無関税貿易を定めていた。

1882年

壬午軍乱:不平等条約に反対した朝鮮の軍人と民衆が決起し、日本公使館を攻撃。 1884年 甲申政変:開国後、朝鮮人自身の手で近代化を計ろうとした金玉均(キム・オッキュン)らがクーデターを起こした

1894年〜1895年 甲午農民戦争(東学党の乱)

※鎮圧を理由に互いに主権を争う日本と清国が介入。

日清戦争に発展。→日本が勝利し侵略政策に更なる拍車をかける。

1895年

閔妃殺害事件:三浦梧楼公使(1895.9就任)が、日本守備隊員・大陸浪人・公使館警察・居留民らに王宮襲撃、閔妃殺害指示(宮内府顧問・岡本柳之助指揮)→内外世論の非難で日本の勢力後退決定的。三浦らは召還・拘置、しかし無罪で釈放

1904年

日露戦争:満州や朝鮮への南下政策を進めるロシアと日本が開戦。

1904年

2月 日韓議定書:日本軍の駐屯と日本軍の戦争に対する協力を強要。

8月 第一次日韓協約:韓国政府に、日本が推薦する顧問を迎えることを強要。

1905年

7月 桂・タフト協定:日露戦争の講和会議における日米の非公式合意。日露戦争後、日本の韓国支配とアメリカのフィリピン統治を互いに尊重することで合意。

8月 第2回日英同盟:日本はイギリスのインド支配を認める.    

9月 ポーツマス条約:ロシアから朝鮮支配の承認を取り付ける代わりに日本の朝鮮保護国化を認めさせる。

11月 第ニ次日韓協約(乙巳保護条約):韓国政府の外交権を奪い、保護国化。翌月ソウルに統監府を置く。(初代統監・伊藤博文)

1907年

6月 ハーグ密使事件:皇帝高宗は、オランダのハーグで開かれた万国平和会議に密使を送り、日本の暴虐を世界に訴えようとするが、日本の妨害により失敗に終わる。

これを機に、日本は高宗に譲位を迫り、7月、第三次日韓協約(韓国の軍隊を解散させる。また、韓国政府の法制や行政についての統監府の承認を強要し、内政権を剥奪)を強制させる。

1909年

10月安重根がハルピン駅頭で伊藤博文を射殺。

1910年

8月 韓国併合…安重根による伊藤博文暗殺をきっかけに、日本は軍隊を動員し、「韓国併合条約」を調印させる。「大韓帝国」という国号はなくなり、「朝鮮」という地域名になった。

また、朝鮮総督府が設置される。総督は、立法・司法・行政・軍事の権限を一手に握っていた。

抵抗する朝鮮人には、逮捕と処刑が繰り返され、朝鮮民衆は、植民地支配に服従するか死を選ぶかのどちらかを迫られるようになった。

※朝鮮総督府 1910年(明治43年)、日本は韓国を併合。韓国支配のための統治機関として朝鮮総督府を韓国の漢城(現・ソウル)に設置、以降は太平洋戦争終結まで「内鮮一体」の名のもとに植民地統治を続けた。

 武断統治と文化統治

武断統治(1910〜1919)…反日運動を武力、暴力をもってして徹底的に取り締まった時期。

○憲兵警察制度…本来、軍隊を監視する憲兵が警察官を兼ねて、朝鮮人の日常生活の隅々にまで目を光らせた制度。

○土地調査事業…朝鮮の土地の近代的所有権を確定するという名目を掲げ、不明確な通達を行っただけで、農民から一方的に土地を奪っていった。土地を奪われた朝鮮人は、生きる道を探して日本へ渡って行かざるを得なくなる。

○同化政策…朝鮮人の民族精神を抹殺し、皇国臣民に仕立て上げるための政策。日本の侵略を合理化するために、朝鮮の民族文化を否定し、日本の国家神道を文化の中心に据えた。天皇崇拝、日本語学習の強制や、朝鮮語および朝鮮の歴史を学ぶことを制限していった。

1911

8月朝鮮教育令:日本の教育勅語の趣旨に基づいて、「忠良な国民」を育成するための、朝鮮での教育を定めたもの。朝鮮人の民族的自覚を麻痺させ、民族運動の根を立つのがねらいであった。

1918

3・1独立運動:ウィルソン米大統領『民族自決主義』発表。これに影響を受けて2月8日、在日朝鮮人留学生が独立宣言文を発表。次に、これが朝鮮に持ち込まれ、民衆を大きく励ます。3/1 ソウルのパゴダ公園に市民、学生、労働者、農民数千人が集まり、『独立宣言書』が発表され、「大韓独立万歳」とさけびながらデモが行われる。

デモはたちまち数十万人規模となり、朝鮮全土に広がって行った。日本は完全武装の軍隊と、憲兵警察を使って、発砲、抜剣して非常な弾圧を繰り返す。しかし運動はなかなか収まらず、一年もの間続いた。

文化統治(1919〜1930)…「武断統治」では、かえって朝鮮人の反抗を招くと考えた日本政府が打ち出した懐柔政策。

・憲兵警察を廃止し、普通警察を導入。

・官吏や教員の制服帯剣を廃止。・朝鮮人官吏の登用。

・集会や出版を制限付きで許可。

その一方…

・警察官の数が以前の3倍に増加。

・朝鮮人官吏は親日派に限られ、分裂を促進。

・日本の「治安維持法」適用開始。

一見融和しているものの、実質はさらに巧妙な方策で統治を強化していた。

1920

産米増殖計画…1918年に米騒動を誘発した日本国内の食糧問題の解決を目的とし、15年間の期間に土地改良と耕作方法の改善や水利施設の完備で米約920万石の増産を目的とした。この計画は農民に水利組合費、種子、肥料、農具購入などの金銭的負担を増大させ、農民たちは借金のため土地を手放し、都市や国外に流れていった。

このような日本の植民地支配に対し、朝鮮民衆の抵抗は続いていった。

1926/6

6・10万歳運動…李朝最後の皇帝純宗の葬儀に連動して、学生たちがビラを撒き、「独立万歳」を叫び、群集がこれに呼応して起こった。民族運動の担い手が、共産党や、天道教指導層から学生に移るきっかけとなった運動。

1929

光州学生運動…全羅南道羅州から光州に向かう汽車の中で、日本人学生が朝鮮人女子高生を侮辱したことがきっかけとなって、学生を中心に植民地支配に対する反日運動がおこった。彼らは学校内の植民地教育に反対して、朝鮮人本位の教育を主張するとともに、それらの具体的要求を民族解放という政治的欲求に結び付けて運動を展開した。

 在日朝鮮人の増加と関東大震災

初期の日本在住朝鮮人の多くは留学生であった。「1919年以前は常時1000〜2000人程度以降は3,000人を超える年もあった。

1927年以降は平均2000〜3,000人程度。(3割〜5割の在日学生は学費を自分で稼いでいた。)教養を身に付けても「亡国奴朝鮮人」には働き口がほとんど無い。だから7,8割は共産主義者だった。

日本、ドイツ、ロシアに留学した者はたいてい共産主義者。フランス、アメリカに留学した者はキリスト教系の活動をした。

1919年以降日本の大学は極東全体の学生の中心地だった。朝鮮の学生は誰もが日本の大学に憧れていた。」

※参考資料 岩波文庫 アリランの歌より ニムウェールズ著

1910

韓国併合後、急激な産業発展に対し安い労働力が必要となった日本は大阪府の摂津紡績木津川工場が朝鮮人の雇用を始める(1911)

武断統治で土地を奪われた朝鮮の農民たちは働き口が無くなり、朝鮮人労働者としてあいついで日本に渡航。福岡県、北海道などの炭坑、大阪、兵庫、和歌山、岡山など各地の紡績工場、造船所、製鉄所、ガラス工場などに雇用される。

※○関東大震災(1923/9/1)

災害の大きさは未曾有のもので、死者数は、総計10万人以上。恐怖と混乱のさなか、9/1夜から「朝鮮人が放火した。」「井戸に毒を投げ込んだ。」といったようなデマが飛び交う。2日になると日本政府は戒厳令を出し、無線で全国に「朝鮮人の暴動」が伝えられる。軍隊や警察、自警団がいたるところで、「朝鮮人狩り」を行い、銃殺、なぶり殺しを繰り返す。6600余人の朝鮮人が虐殺されたといわれている。結局、この事件の責任の所在は明らかにされぬまま、放置された。

虐殺された朝鮮人

また、この関東大震災や、3・1独立運動などの反日運動を通じて、日本の支配層や民衆の間には、朝鮮人に対する蔑視や偏見が広まっていく。

日本では、朝鮮人に「不逞鮮人」、「半島人」、「暴徒」などと差別意識をあらわにした言葉を用いるようになった。

 大陸兵站基地時代(1930〜1945)と皇民化政策

世界大恐慌の波の中、日本政府は広大な土地と豊かな資源を持つ中国東北部(満州)にねらいをつける。

1930 日本が満州事変を起こす。

1931 日本政府は満州国建国を皮切りに中国への侵略を本格化した。

1937 日中戦争勃発。

戦争期間、朝鮮は中国侵略のための「兵站基地」とされる。

※兵站基地…戦場の後方にあって、物資、兵員などの補給、整備などにあたる基地。

朝鮮の物資と人間を根こそぎ動員するために、第7代朝鮮総督南次郎は「内鮮一体」を提唱。この「内鮮一体」は、朝鮮人への差別を撤廃して日本人と同一化することではなかった。「内鮮一体」の目標はどこまでも、朝鮮人の心から皇民としての自発性を引き出して、天皇と日本国家への忠誠心を発揮させることにあった。

そして日本は、朝鮮人の民族精神を抹殺し、「忠良な国民育成」を図るそれまでの同化政策をさらに推し進めた「皇民化政策」を展開していく。

○皇民化政策

国旗(日の丸)掲揚 

宮城(皇居)遥拝

「皇国臣民の誓詞」斉唱

日本語の使用を強制、朝鮮語使用の禁止

神社参拝

創氏改名

(1939/2…「創氏」とは、それまでの朝鮮の伝統であった夫婦別姓を夫婦同姓に変え、戸主中心の「家」の観念を確立するもの。強制。「改名」とは、日本式の姓に改めること。任意。

しかし、役場や学校、警察などを通じて様々な形で強制された。

創氏改名をしない人は、「非国民」とされ、子供が学校に入れなかったり、働き口を断られたり、郵便物の配達を拒否されるなどの嫌がらせを受けた。強い抵抗がありつつも、全人口の約80%が日本式に姓を変更した。

在日朝鮮人のみに行われた皇民化政策もあった。

●協和会事業…「協和会」とは、警察が実権を握る、朝鮮人の同化を目標とした治安管理のための団体。全ての朝鮮人の加入を強制した。この協和会が発行した「協和会手帳」が、現在の外国人登録証の前身。この手帳を保持していないと、強制連行からの逃亡者として取り締まりの対象になった。

1939/7 国民徴用令を公布。朝鮮人にも適用され、「強制連行」始まる。

○強制連行…朝鮮総督府が日本全土の各会社、事業所からの申請を受けて、その人数を各道に割り当て、その地域の行政機関が労務係員や警察官などに命じて、実質的な人狩りを行った。そのやり方は、深夜や早朝、突然男手のある家の寝込みを襲い、あるいは田畑で働いていたり、歩いているときにトラックで乗りつけて捕まえ、監禁したまま港から船に乗せてしまうという荒っぽいものであった。

強制連行された朝鮮人の数は約100万人にのぼる。強制連行者の行き先は、サハリン、北海道、九州その他日本全国の炭鉱・鉱物採掘場・軍需工場・各種工事現場におよび、その多くは爆発など、事故の危険性の高いところで働かされた。

しかもいわゆる「タコ部屋」に閉じ込められ、反逆や逃亡を企てれば、見せしめにリンチを加えられて殺された。

また当時、朝鮮人女性も「女子挺身隊」の名のもとに労務動員され、8〜10万人(一説には20万とも言われる)が「従軍慰安婦」として各地の戦場に送られた。

性の奴隷として働かされた彼女たちは、戦死、病死、自殺などに追い込まれた。生きて帰れた者も、貞操観念の強い儒教国家だけに想像を絶する社会的差別に苦しんだ。

1941  太平洋戦争勃発

1944/4

徴兵制が実施される。約21万人の朝鮮人青年が徴兵され、約15万人が軍属として狩り出された。

軍属のうち、約3000人は、バンコク、シンガポール、ジャカルタなどで、連合国側の捕虜を収容した収容所の監視員として働き、日本人上官の命令で捕虜を虐待する役割を担わされた。

彼らは、戦後の軍事裁判で捕虜虐待の「BC級戦犯」として罪を問われ、21人が処刑、111人が10年からの終身刑の判決を受けた。

1945/8

広島、長崎に原爆投下(在韓被爆者数:2万3千余名、在日被爆者7千余名)日本がポツダム宣言を受諾⇒日本敗戦、朝鮮の解放/朝鮮への引き揚げ始まる。

解放直前の在日朝鮮人の人口   193万7千余名  約129万6千人が引き揚げる

1946/3の在日朝鮮人の人口    64万7千余名